May 17, 2021
スタジオエイトってアニメ会社があった
オレがアニメーターとして最初に入れてもらったスタジオエイトという作画プロダクションについて知ってることを書きますよ。スタジオエイトの前身は「朝日フィルム」というアニメーション制作プロダクションでした。大手下請けプロだった朝日時代を含めると業界の老舗ですが、オレが入ってわずか8ヶ月後に消滅したんです。
朝日フィルム
1961年、『犬神家の謎 悪魔は踊る』(1954)などに出演した東映俳優の高橋清三郎氏が撮影機材を購入し、撮影スタジオとして北区十条に朝日フィルムは設立されました。TVアニメが始まる2年前なので、CFアニメを制作してたんでしょうか。その後、豊島区南長崎に移転しました。西武池袋線の東長崎駅から徒歩7分ほど、外壁にアリのマークが描かれた「アリタ館」って2階建の建物でした。朝日フィルム自体はクレジットされることがなく(唯一クレジットされたのは『海のトリトン』)、TVアニメへの参入タイミングは不明です。日大芸術学部から入社した山吉康夫さん、山口秀憲さん、川田武範さんの3人が『レインボー戦隊ロビン』や『魔法使いサリー』の演助にクレジットされてることから、1966年には東映動画作品に関わってたと思われます。タイガーマスク
脚本家の伊上勝氏の弟子で『豹(ジャガー)の眼』(1959)の脚本を書かれていた森利夫さんは、入社したタツノコプロでアニメーターに転身。笹川ひろし氏の指導の下、『宇宙エース』(1965)の動画でデビューしました。翌年、タツノコの先輩である漥詔之さんが立ち上げたスタジオ・ビーズに移籍。『レインボー戦隊ロビン』(1966)以降の東映動画作品の作画に関わり、『タイガーマスク』(1969)の途中で朝日フィルムに移籍しました。それが朝日フィルムの作画部門の始まりかもしれません。朝日フィルムは作画、仕上、撮影、製作進行、演出を要する下請けとしては大きなプロダクションになりました。海のトリトン
1972年に放送が始まった『海のトリトン』はアニメーション・スタッフルーム製作ですが、実質の制作は朝日フィルムでした。そのためエンディングで制作協力としてクレジットされています。表記は朝日フイルムになってます。一方、東映動画作品は「『ゲゲゲの鬼太郎』(1971)、『デビルマン』『マジンガーZ』(1972)、『ミクロイドS』『ドロロンえん魔くん』(1973)、『ゲッターロボ』(1974)、『グレートマジンガー』(1975)を手がけます。右は『マジンガーZ』朝日フィルム担当の19話からデビラーX1に破壊されるアサ日ビル。- 朝日フィルムの外注または所属アニメーター(敬称略):小松原一男、羽根章悦、菊地城二、高倉建夫、若林哲弘、鈴木英二、正延宏三、兼森義則、及川博史、稲野義信、鈴木孝夫、谷沢豊、泉口薫、刀根夕子など
朝日フィルムの主な作品
- 1969『タイガーマスク』
- 1971『原始少年リュウ』『ゲゲゲの鬼太郎』(第2作)
- 1972『海のトリトン』『マジンガーZ』
- 1972『デビルマン』
- 1973『ドロロンえん魔くん』『ミクロイドS』
- 1974『グレートマジンガー』
スタジオエイト
1975年、『グレートマジンガー』制作中に高橋社長ら取締役が身を引き、館浩二氏を新社長としてスタジオエイトに改組されました。高橋前社長は俳優に復帰、撮影部は佐野禎史さん率いるイマジネーション・プロダクツとして別組織になりました。エイトなのは設立時に8人の発起人がいたからだそうです。以降、『グレンダイザー』(1975)、『マシンハヤブサ』(1976)、『キャンディキャンディ』(1976)、『グランプリの鷹』『ジェッターマルス』(1977)などの制作ローテーションに組み込まれました。スタジオエイトの主な作品
- 1975『UFOロボ グレンダイザー』
- 1976『キャンディ・キャンディ』『マシンハヤブサ』
- 1977『ジェッターマルス』
- 1977『アローエンブレム グランプリの鷹』
- 1978『宇宙海賊キャプテンハーロック』
スタジオコクピット
1978年、演出の山口さんは山吉さん、川田さん、作画陣と共に独立し、桜台にスタジオコクピットを設立しました。森さんとしまださん、演助の吉沢さんらはエイトに残留しました。時期は不明ですが、仕上部は柴隆之さんがタカプロとして独立しています。このため、エイトの仕上机は放置か、新人の動画のために使われました。- スタジオコクピット設立時のスタッフ(敬称略):山口秀憲、山吉康夫、川田武範、高橋英吉、河村信道、松村啓子、加藤良子、上野茂々子、多田康之、三原武憲、椎名繁、多田信
キャプテン・フューチャー
手薄になった作画に新たにアニメーターが補充されました。上村栄司氏も4人をエイトに紹介しました。その1人がオレです!1979年、TVシリーズの『キャプテン・フューチャー』と劇場用『銀河鉄道999』の頃です。その時点で、所属アニメーターは21名(うち19名が動画!)でした。動画の仕事は東映作品が大半でしたが、他にサンライズやマッドハウスの仕事も入ってました。基本給が30,000円で、270枚までは枚数に関わらず30,000円は保証されました。270枚を越えると超えた分の出来高がプラスされました。1階と2階
エイトの1階は、タイムカードのある入り口横の小部屋にTVとソファーがありました。土曜の夕方はここに集まってプロレスを見るんです。入口から大部屋に入ると、動画机や仕上机(新人の動画マンが使用)、大きな棚が並びます。机には東映動画の備品シールが貼ってあったので、譲り受けたものでしょう。そして吉沢さんの机もあって制作の中心です。オレの席はこの部屋にあって、小部屋の裏側にあたる位置の仕上げ机でした。森さんのチェックを受ける場合は、仮眠スペース横にある奥のドアから出ます。そのまま進むと撮影会社です。廊下を左に行った先に社長室。その横の階段を上がると2階の動画室。10人くらい。その奥の部屋は原画室で、左に森さん、右にしまださんの席がありました。1日おきに泊まる森さんの寝室も兼ねてました。新たなる旅立ち
『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』は切羽詰まった追い込みで、エイトの動画マン総動員で徹夜しました。珍しく夜食も出ました。79年7月31日のOAは、会社の旅行先である千葉の民宿で、大笑いしながらみんなで見たのを覚えてます。怖い話
どこのアニメ会社もありがちなのが心霊体験話。スタジオエイトにも怖い話はいくつかありました。仕事中に足音が自分の背中で止まり、誰かな?って振り返ると誰もいない。誰もいない席で動画用紙のパラパラ音や、鉛筆削りの音がしたり。深夜にベッドで仮眠とってたら急に寒くなって何かを見た先輩。オレが体験した夜は、森さんが「もう誰もいないから帰るとき戸締り忘れないように」と帰って行きました。建物内でたった1人で仕事してたときのこと。進行の机にあるビジネスホンが鳴りました。深夜に電話かかってくるのは珍しくないわけです。電話に出ようとすると、内線からの呼び出しランプが点滅してたんです!誰もいないはずなのに!受けるのをやめると鳴り止みました。しばらくするとまた内戦から呼び出し音が!怖くなって仕事をやめて走って帰りました。1人で徹夜して真っ暗な社内を歩くのは平気だったのに、それ以来怖くてダメです。そういえば廊下にお札が貼ってあって、その由来はスタジオエイトが入っているアリタ館のあった場所はかつて防空壕だったからって聞きました。解散の噂
エイトではみんなでスケートやボウリングをしに行ったり、プロレスを見に行ったりと楽しく過ごしてましたが、秋頃からギャラが遅配になりました。会社の資金繰りがかなり逼迫してたようです。『サイボーグ009』(1979)の打ち上げで再会した上村さんには「エイト危ないんだって?」と声をかけられました。社外の人から言われるってことはスタジオエイト解散説が業界内で噂になってるんだと実感しました。さらに、スタジオコクピットの山口さん、山吉さん、川田さんの3人が慌ただしくエイトにやって来たのは、登記メンバーから名前を削除するためのようでした。解散確定
1980年に入ると、スタジオエイトが存続するのは不可能でした。『地球へ...』(1980)の制作中でした。自分としてはノーギャラでも続けたかったものの、先輩に促されて館社長に辞表を提出しました。受け取ってはもらえましたが、そもそもオレは社員じゃなかったw タイムカード押してたし、8ヶ月間社員だと思ってましたが、スタジオエイトの社員は社長と事務の2人だけ。社長はイイ人で、家財を処分するなど資金繰りに奔走してましたが、最後のギャラは未払いのまま。D計画
解散となると、23名に増えていた動画マンはどうなるんでしょうか?フリーでやっていけるほど育ってないわけで、『日本沈没』のD計画です。ド新人のオレは強制送還か、移籍先を紹介してもらうか。エイトの動画救済で東映動画またはスタジオカーペンター移籍案も出てました。森さんは練馬に移転したスタジオコクピットに移籍するようです。森さんがオレの席に来て「深谷君はどうするんだ?」と聞かれました。「わかりません」「オレに任せるか?」「お願いします」「傾斜のついた動画机で仕事できるようになるから」森さんは一緒にコクピットに移籍できる動画マンに選んでくれたんでした。それは22人中たった5名でした。最終的に5人が追加され、計10人の動画マンがコクピットへ移籍できることになりました。他の動画マンもスタジオアトン、スタジオカーペンター、スタジオジャイアンツ、菁画舎などに移籍しました。東映動画からエイトに渡った原画机は1万円で譲ってもらいました。また、エイトで未払いだったギャラは後に支払われました。関連記事
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- Wikipedia:スタジオ・コクピット
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